そのおじさんの故郷は福島なんだと。
『私の家のすぐ近くに会津若松城がありましてね、子どもの頃はそこが遊び場でしたよ。家の前の道を会津藩士達が歩いていたと祖父からよく聞いたもんです』
「まあそうですか、会津と言えば、八重の桜ですね」
『そうそう!あれもね、知らないで見るのと知ってて見るのじゃ大違い。なんちゅうかこう・・・(広げた両手を動かしながら)こみ上げるものがありますよ』
おじさんは、八重の桜という言葉で、一段と熱くなったようでした。
そうだこのあいだ、ちょうどリンゴの事をあれこれ読んでいた中に、余市のリンゴの話しもあった事を思い出しました。
「余市のリンゴは会津藩士が栽培したんですよね」と言ってみると、おじさんは
『そうなんですか!?』とちょと驚いた様子です。
色んなサイトからの受け売りだけど、覚えていた事を話してみました。
「北海道の余市には、戊辰戦争に負けた会津藩士の人たちが居住させられたそうです。
そこで、リンゴを栽培せよと刀をクワに持ち変えさせられて、それで、すんごい苦労をして、2軒の元会津藩士の農家がリンゴの栽培に成功させて、余市の名産のリンゴの礎を築いたそうですよ」
『そうなんですか!いやあ知りませんでしたあ』
「リンゴを栽培せよと言ったのは、自分たちからすると、いわば敵国の人間だったわけですから、それはそれは屈辱に耐えての事だったのでしょうね」
『んん・・・』
「そのリンゴに付けた名前がまたいいんですよ。えーと、なんとかの・・あれ?なんだっけ?・・・・つまりその、会津藩ゆかりの名前にしたそうです」
『・・・・・・そ、そうなんですかあ』
「・・ほ、ほほほ」
『いやあ、感動いたしましたあ』
惜しかったよね。
途中までの説明はカッコよかったのにね。
でも、おじさん、ちょっとだけ喜んでくれたからまいっか。
PR
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■ 会津藩士が余市で作ったリンゴの名前は『 緋ノ衣(ひのころも)』
そのリンゴの名前は 『 緋ノ衣(ひのころも)』という名前でした。
会津藩主松平容保(かたもり)が孝明天皇から頂いたという「緋の御衣」の色赤と、お城を明け渡す式を行った場に敷かれた緋の毛氈(もうせん=フェルトのようなもの)の赤色を忍んで付けられたそうです。
■ 会津藩士は殿様のため
むかーしむかし、それは明治4年の頃、武士の時代が終わった頃の事じゃった-。
武士だった会津藩士も、仕方なく、刀を持つ手をクワにかえ、家族と共に北海道のあちこちに移り住んだ。
その中に、余市に移り住んだ会津藩士たちもおった。
ある日の事、北海道開拓の偉い人、黒田清隆(きよたか)がやって来て言った。
「このアメリカ原産のリンゴの苗を植えるんじゃ」
けれど、元会津藩士達は思った。
「何言っとるだ!清隆は、武士のワシらをこんなめに合わせた薩摩の人間じゃないか、そったら見た事もねえ食いもんなんか、なーんで作らにゃならんのだ」
こうして、配られたリンゴの苗は、何処の家でも、ほったらかしにされて、枯れてしまったんだと。
それから月日は流れ、明治12年の秋の事じゃった。
赤羽源三さんと、金子安蔵さんの家の木に、見た事もない真っ赤な木の実がなったんだと。
そのリンゴのなんと美しいことか。
そこで、会津藩にとって大事な色 「緋の衣(ひのころも)」(19号)という名前を付けた。
もう1つは「国光(こっこう)」(49号)っというリンゴにした。
二人は、皆が枯らしてしまったリンゴの木を、なんと大事に育てていたのじゃった。
こうして余市のリンゴは、今では日本中で食べられるようになったんじゃと。
(※ リンゴの名前には19号とか49号とか、番号が名前になっているのを聞いた事はありませんか?
以前、バスガイドさんから聞いた話によると、それはリンゴの木の番号だそうです。
木には1本1本番号が付けられていたんですね。)
・・・・・・・・・・・・・・・・
会津藩士たちが戊辰戦争に敗北したあとに北海道各地に渡ったのは、藩主の松平容保の命を守る事と引き換えだったとか。
時が過ぎて、昭和59年の話しになりますが、当時の福島県知事は会津藩最後の藩主、松平容保(かたもり)公の孫にあたる松平勇雄さんでした。
余市の事を知った松平さんは、余市町を訪れて、会津藩士の子孫の方達にお礼をおっしゃったそうです。
「今の自分がいるのは、皆さんのおかげです」
殿様を一目見ようとやって来た老人が、涙をいっぱいためていたという話を聞いた事があります。
今でも北海道のあちこちに、会津の精神が残っているのでは。
そんな事を考えると、私もちょっと胸が熱くなります。