月形町は、今で言う”刑務所”から生まれた町です。
明治14年にできた当時は『樺戸(かばと)集治監』と言ったそうです。
ここにね、初代典獄(所長)としてやってきたのが月形潔という人です。
集治監ができたばかりの時は、回りは原野で官舎もまだない状態だったので、月形潔は、囚人と一緒の部屋でざこ寝したそうです。彼らを励ましたり、東京に出張すると、お土産を買ってきたりもしたそうで、そんな月形潔の事を、いつしか囚人たちはても慕うようになりました。
村人からも尊敬された月形潔にある時、その功績をたたえて、お寺を建てようという話しがもちあがりました。
すると、囚人たちが自分達で作りたいと願い出ました。そして、大工の囚人が棟梁になって、お寺を建てました。
月形潔は、それくらい、囚人や村の人達に慕われていたのですね。
でも私は最初、いくらなんでも刑務所に入っているのは悪人だし、真面目にお寺なんか建てるのかなあ。逃げ出したりしないのかな・・と思いました。
でも、資料や本を見ているうちに、私が囚人=悪人と思い込んでいた事がそもそもの間違いだったという事に気がつきました。
もちろん、誰かを包丁でグサ!!ギャ〜〜〜!!な〜んて人も中にはいたかもしれないけれど、当時は明治維新という時代。
武士の時代が終わりになってもなお、武士道を貫こうとした人や、新政府への不満を持った人などが大勢いて、その人達は政治犯として監獄に入れられたそうです。
明治になって次々に作られた監獄は、新政府にとって都合の悪い人達を捕まえて入れちゃおうというねらいもあったのです。
以前制作されたNHKの大河ドラマ『獅子の時代』では、会津藩の下級武士が、無実の罪で樺戸集治監へ入れられちゃうというストーリーの部分がありました。
『悪人』か『善人』かは、その時代が決めてしまう事なんですね。
そんな時代の中で、月形潔は「囚人』は決して『悪人』ではないという思いを貫いていたのでしょうか。
月形潔は、その後、故郷の福岡に戻りましたが、48歳で亡くなる時「戸籍は月形に置くように」という遺言を残したそうです。
当時、樺戸監獄の事務所として使われていた建物は、今は資料館になっています。
正面の踏み板がこんなにへこんでいます。いったいどれくらいの人が踏んだのでしょうね。
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