北海道・札幌発・だべさ通信5

女人禁制 オタモイの海の物語

北海道の積丹半島の海の色は、積丹ブルーと言われていて、青く揺らめくガラスのようです。
この海が女人禁制だったころにあった、悲しい物語りのお話しです。

 

弘化4年(1847)4月24日の朝、オタモイ海岸に、若い女性の死体が打ち上げられました。
彼女の名前はおイトといいました。
大きなお腹をした身おもの体で、打ち上げられたとき、はだけた着物のふくらんだ胸から白いものがにじんでいたそうです。
それは、もうすぐ産まれる赤ん坊に飲ませるはずだったおっぱいだったようです。
魚津(富山県)の医者の娘で、好きな若者がいましたが、親に強く反対されていました。
ある本によれば、”ふたりの間を引き裂かれた若者は傷心して蝦夷地(北海道)に渡った”とあり、
別な本には、三男坊だった若者が、”お金を稼ぐために蝦夷地に出稼ぎに出た”と書いてありましたが、いずれにせよ、
好きな人に会いたい一心で、おイトは大きなお腹をかかえて蝦夷地へと向かう北前船に隠れて乗りこんだのでした。

 

 

ところが、積丹半島のカムイ岬のあたりまでやってくると海が荒れ始めました。
船乗りたちも、ただただ神に祈るしかすべがないほどの大荒れです。
『海が荒れたのは自分のせいで海の神が怒ったのだ』と思ったおイトは、船底から現れたかと思うと、そのまま海に身を投じたのです。
それからまもなく海は静かになりました。

PR

 

そして翌朝、オタモイの海岸に、おイトの亡きがらがあったのです。
哀れに思った忍路漁場の西川徳兵衛という人が,供養のために石の地蔵尊を作らせました。
その時のおイトは若干20歳くらいだったようです。

 

昔、積丹半島の海は女人禁制でした。
この海には女神がいて、女が船に乗ると、女神が怒って嵐にさせるというものです。
当時、北海道は鰊で栄え、積丹半島の北にも多くの出稼ぎ労働者がやってきました。
この海を女人禁制とした理由は、一説によると、この伝説を利用して、幕府が蝦夷地を管理するためだったと言われています。でもね、男性ばっかりでも・・・・ってことで、遊郭だけは、そりゃそりゃあちこちにできたそうですよ。

20数年ほど前、爺ちゃんに連れられてオタモイ海岸にいった時、小屋のようなものの中にあったのは、確かにお地蔵様のようでした。
積丹の海は、悲しい女達が流した涙の色でもありました。

 

 

※ 写真は、2011.8撮影です。小樽市のHPによると、現在オタモイ海岸への遊歩道は落石多数の為、閉鎖されてているとの事です。

 

 

 

 


小樽の祝津に残る2つの昔話し

面白かったらポチっとね。


人気ブログランキングへ

スポンサーPR