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『北海道(北加伊道)』の名付け親、松浦武四郎という人は、江戸から明治にかけて6度も北海道を訪れたそうです。
文字を持たないアイヌの言葉を記録していたおかげで、今でもアイヌ語が、北海道のいたるところに残っています。
歴史も歴史上の人物も、まったく得意じゃないけれど、ある事を知ってから、いきなり松浦武四郎さんが身近に感じられるようになりました。
それはもう何年も前の事だけど、昔、手稲本町(札幌)にあった古本屋さんに入ったときの事です。
かその場所は今、”串鳥”って名前の焼き鳥屋さんになっていて、それがまた安くて美味しくて、お通しにでる大根おろしと鳥ガラスープが まんずいい感じ・・・・
あ、そうでなくて。
その古本屋さんにフラリと入ったのはいいけれど、興味のある本もなくってさ、でも1冊くらいは買わないと申し訳ないわと思ってたまたま目についたのが、北海道の昔の事が書かれている本でした。
帰宅してから ダラダラとページをめくってみる。
” あ、松浦武四郎だって・・・聞いた事ある名前だけど、だれだっけ・・・幕末の探検家・・・ふ〜ん北海道の名付け親か・・・・
東西蝦夷地山川地理取調図を作ったか・・・長い名前でよくわかんないわ・・・・
軽川(がるがわ)付近・・・・なな、なに!軽川!?
松浦武四郎は手稲も通っていたのか!
『軽川』は手稲にある川の名前で、手稲の町は昔、その名の通り『軽川』と呼ばれていました。
本の著者は、武四郎の足跡をわかりやすく説明していて
”上流部の軽川は急流で溝のような深いところを流れており、それをロウネナイと呼んでいた。その沢のどこかに倒木が橋のようにかかり、その上に動物をとらえるための『カ(わな)』がしかけられており、その場所をガロウと呼んでいた” と書いています。
こんなに詳しく軽川(手稲)の事を書いているなんて、松浦武四郎って、すんごい人だ!
手稲を通ったというだけの単純なことだけどさ、物事が好きになるきっかけなんてそんなもんよ。
あとで調べてみましたら、1858年(安政5年)に、手稲の前田地区を通ったという記録が手稲の歴史に残っていました。
果たして、彼が手稲のあたりをどのくらい調査したのかはわかりません。
けれど、『上流部の軽川は急流で溝のような深いところ・・』は、手稲山へ向かう途中の谷間あたりではないか、と本の著者は言っています。
ほらほら〜なんだかワクワクしてきちゃうっしょ。
身近にある歴史だから好きになる。
だから誰でも、一番身近な自分の歴史を作った町を、好きにならずにはいられないのではないでしょうか。
写真は、2013年09月23日upした手稲山途中にある手稲橋。
手稲の町が一望できます。下を流れているのが軽川です。