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手稲駅の広場『あいくる』に、昔の手稲駅の写真が展示してありました。
写真を見て懐かしく思う人は、次から次と沢山の思い出が蘇るに違いないね。
すごく昔のことでも、経験したものだと、つい最近のことのように思えてきます。
例えばこの駅舎。
うわ、なっつかしい〜。
そうそう、こんな形をしていました。
パネルの説明には、昭和9年の改築を経て、50年間にわたって使われていたと書かれています。
■ 手稲駅へは荷物を取りに行ってたよ。
自分が昭和の30〜40年代ころのお話だけどね、お正月が近づくと、父親の実家の岩手県から、毎年、荷物が届きました。
そのときは今のように宅配便がなかったっしょ、駅から連絡が入ると、手稲駅まで取りにいくわけ。
当時の我が家は、手稲駅から今の車で10分ほどの手稲金山って所に住んでいたので、父親が三輪車を頼んで、それに積んで運んできました。
当時の国道5号線は、まだアスファルトではなかったから、凸凹道を20分以上かかったのかな。
※三輪車とは・・・タイヤが3つのやつ。
小さな子がペタルでこぎこぎするやつね!そうそう、それに乗せて持って来た・・・・んなワケないっしょ!それは三輪車!あら、同じ名前だ。
タイヤが3つの自動車があったんです。自動三輪って言うんだね。
荷物は、麻ひもでしっかりくくられていて、荷札がついています。荷札は細い針金で付けられていました。
荷物の中身はというと、お米や、りんご、あと、子どもだった私が大好きな ”こうせん(香煎)”っていう粉も入っていたね。
※こうせんとは・・・大人になって知ったけど、麦を炒ってから粉にしたものであるらしい。
見た目は、きな粉に似てる。そのまま食べたり、お水を少し足してグルグル練ってたべたりしたよ。
送ってもらった ”こうせん” には、ほんのり甘かったから、お砂糖も入っていたんだと思う。
■ 駅前のホテルは今でも昔の名前で通っちゃう
手稲駅前に現在ある手稲ステーションホテルは、昔は『舟木旅館』という名前でした。
私の知る限りでは、手稲の旅館はここしかなかったんじゃないかな。
富山の薬やさんが、よく泊まっていたって聞いたことがあります。
私たちの年齢では、今でも『舟木旅館』って言った方がわかる時もあるもね。
駅前にあるコンビニも、昔あったお店の名前『みのわさん』でわかっちゃったりとかもする。若者にはわからない暗号だね。
こちらは、手稲駅前の風景です。
昭和52年(1977)
少し新しくなって、平成2年(1990)年の写真。
駅前の大きなビルが、まだ立っていない時期ですね。
正面中央のビルの2階、緑の帯がついている『ナイトサパーキング』ってお店は、どーも旦那さんの青春の店らしいよ。
その後、古い駅舎は『停車場』っていう喫茶店になりました。
そして、隣には新しい手稲駅が。
建物が少し尖っているのは、手稲山を表しているらしいです。
この頃には、もう嫁に来てたもね。この駅はよく利用しました。
そして、これが現在の手稲駅。
回りはすっかりビルに囲まれ、以前は駅から見えた手稲山も、ビルにさえぎられてしまいました。
今の子ども達が大人になったときにも、やはり同じように世の中は移り変わっていくことでしょう。
風景には、その時代の心の歴史も刻まれますね。
時間は心のサンドペーパー。
楽しかった思い出は時間とともに磨かれて、ひとつひとつを取り出すたびに、きれいな色になっている。
悲しい思い出は少しずではあるけれど、傷みの角が取れてくる。
ちょっと昔の写真には、そんな思い出の引き出しを、開ける効果があるんだね。
その他の昔の手稲の写真>>
手稲駅前の”ていぬくん”の花壇 が1年
自分の住んでる町のJR手稲駅
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ポプラさん!すべてが懐かしいです。
木造の駅舎の中の様子は、今でも鮮明に覚えています。
待合室の真ん中に、ストーブがあって改札まで暖まっていました。
荷物の受取り・・・ありましたねえ。当時は荷物専用の車両があって、
各駅に停まるたびに、降ろしていました。
木造駅舎あとの「停車場」喫茶店で、ある女性とデートした思い出があります。
これ妻に内緒 (^▽^;)
あと個人的なことですが、初孫が生まれました。超、可愛いです。
初孫の名前は、夫婦それぞれの父親の名前から字をとって、付けてくれました。
うれしいことです。
くにまるさんへ
こんにちは。
懐かしく思って下さって嬉しいです!
ちょうど駅で展示していたものですから、思わず懐かしくて写真に撮りました。
くにまるさんは、待合室の情景も、覚えているんですね。すごいです。
荷物専用の車両の窓には、鉄後格子が付いていたのも思い出しました。
とても懐かしいです。
初孫さまお誕生、おめでとうございます!!
しかも、くにまるさんご夫婦の名前をとってくれるなんて、もうこれ以上の素敵な名前はありませんね!
成長が楽しみですね。