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さっぽろテレビ塔(高さ147.2m)が完成したのは、1957年の8月。
昭和57年と言えば私と同じ歳なもんで、なんだか他人とは思えないんでございます。

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 ■ 骨組みしかなかった頃の『さっぽろテレビ塔』があった

写真は今朝の北海道新聞に載っていたもので、札幌のテレビ塔の骨組みだけが完成していた、翌年1957年の第8回雪まつりの様子だそうです。
向こうに見えるのがテレビ塔。
でも、展望室も電光時計もないから、なーんか存在感が薄い。
展望室が付いているのといないのでは、月とすっぽん、お天道さんと番頭さん、くらいも雰囲気が違うんでないかい。

さっぽろテレビ塔

 

電波塔としてだけの役目を考えればこの姿でも十分なんだけど、展望室や時計が付いた姿に見慣れているせいか、やっぱり現在の姿の方がカッコいいわ。
展望室が完成したのは、この年の8月だそう。
鉄骨だけのテレビ塔は、ほんの数カ月間という事になりますね。

こちらが現在のさっぽろテレビ塔。
さっぽろテレビ塔                            (2015/5撮影)

 

■ 時計は松下幸之助さんのサービスで付いていた!

電光時計が取り付けられたのは、それから4年後の1961年。
この時計なんだけどね、以前聞いたシティガイドさんの話によると、札幌のテレビ塔ができた当初は時計を接地する予定はなかったそうです。
そこに、あの松下電器産業(ナショナル、現在のパナソニック)の松下幸之助さんが、「時計を付ければ必ず見てくれる」と言って、寄贈して下さったそうです。

 

当時のお爺ちゃん、婆ちゃんたちが、電気製品はナショナルなら間違いなし!と、絶大なる信用を誇っていたナショナル。
そう言えば、ナショナルの歌もあったんですよ。
♩ あっかるーいナッショナールあっかるーいナッショナール
みーんなうちじゅう なーんでも っナッショーナール〜♩ ・・・

 

当時、設置された時計の数字の下には以前は『National』と書かれていました。
現在は『Panasonic』になっています。
あと、時計の中に、小さく『寄贈』という文字も付いているそうです。
場所は写真の『4』の文字の左下あたり・・・・・見えるか???
このときは夜だっもなあ〜。

 

札幌テレビ塔                                                                                           (2013/11年撮影)

 

大通りまで出かけたときは、必ず時間を確かめるのに見上げちゃう札幌テレビ塔。
さて、テレビ塔と私、どっちが長生きするのかな???

 

テレビ塔の展望室内の写真はこちら

テレビ塔の中には昭和天皇の為に作ったアイスクリームが食べられる雪印パーラーもりますよ

そういえば、テレビ塔のレストランニュー三幸で、景色を見ながら思いで話をした事もあったっけ。テレビ塔のレストランニュー三幸から見た景色はこちら。

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昔、海賊と言われた男が、手稲(札幌)に潜んでいたというお話です。
手稲区役所1階にある、手稲資料室で見た手稲の歴史の一部をご紹介します。

 

■ 事件の発端になった尼港(にこう)事件

その男の名前は『江連力一郎(えづれりきいちろう)』。
彼は陸軍軍曹で、柔道、剣道、空手など、武術を極めた人物であった。

ときは、大正9年、日本軍がロシアシベリアに出兵中、ロシア沿海州のニコラエフスクという街がパルチザン(ゲリラ軍)の襲撃を受けた。

これによって、女性を含む700人にも及ぶ市民や日本軍守備隊が殺害された。
いわゆる尼港事件(にこう事件)である。
この事件は、日本の社会にとって大きな衝撃になった。

 

■ 海賊と言われた由縁は大輝丸事件

この事件によって、江連力一郎の復讐が始まる。
江連は、軍部や実業家などから資金を得て、大輝丸(740トン)という船を用意する。
ウィキペディアによると、当初『オホーツク海への砂金の採取』 という名目で、失業者や学生などど60人の乗組員を集めたとされている。

大輝丸は小樽を出航したのち、途中、進路を変え、その後ロシア船を襲い乗組員を殺害(資料によると、甲板に並べて首を切ったと書かれてました)、船荷を強奪、(船に積んでいるものをかっさらった)。
まさに、海賊となったのだった。

■ 軽川(現在の札幌市手稲)に潜伏

小樽に帰港した江連だったが、乗組員の告発によって、警察は江連を『海賊』として全国に指名手配する。
そして、大正11年(1922)、手稲の光風舘(こうふうかん)に、愛人とその兄の3人でいる所を発見され、警察官の急襲を受け、軽川(現在のJR手稲駅)で逮捕された。

 

※光風舘は明治25年(1892)に開業した温泉旅館でした。
手稲の国道5号線から山の方(南)に少し登った所。
昔は、国道から光風舘までの道路は石畳、両側が桜並木になっていて、5月の桜の時期は、そりゃそりゃきれいだった・・・と、旦那さんが言っていました(歴史の生証人か?!)。
当時は、札幌の奥座敷と言われる定山渓温泉までの道のりがまだまだ大変な頃、手稲の温泉旅館だった光風舘はとても賑わっていたそうです。

 

昭和の初期には徳川喜久子(とくがわきくこ)姫(昭和5年に18歳で高松宮妃)が学生のころ、夏休みをここで過ごされたそうです。
それだけ、立派な旅館だったのでしょうね。
現在、光風舘は存在していません。

資料室に展示されていた光風舘の写真です。
ここに潜伏していたのか!
光風舘

 光風舘

光風舘
手稲区役所の歴史資料室、時間のあるときにそっと覗いてみると、へ〜とか、ほ〜とか思えるものがあって、けっこうおもしいよ。

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