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「『てっきー!敵機ー!』誰かがそう叫ぶと、みんなバケツとか、スコップとかを頭にかぶるんだよ。私なんか笹薮に逃げたからダニがあちこちついて大変だったさ。牛なんかみんな先にやられる、ありゃ目立つんだなきっと」
実家のお墓参りの帰り道、母がまた、昔の話を始めました。
なるほど、確かに上空から見るホルスタイン牛は、ごま塩みたいで空からだと狙いやすいかもしれない。
「バケツかぶったって、尻隠さずだべさね、はっはっは」
今じゃ笑って話すけど、当時は戦争だったから生きるか死ぬかだもんね。
亡くなった父は、ぐてんぐてんに酔っぱらう度に、戦時中に身に付けていたゲートル(足首から膝まで包帯のように巻いて、歩きやすくするもの)と、自身の指を切り、その血で名前を書いたというハンカチを広げ、自分の乗っていた呑龍(どんりゅう)という飛行機の事を話しては泣きました。
子供だった私は、父の背中のキズ跡を見てもなーんもだったから、一度だけ「人、殺したの?」と聞いてしまった事がありました。
「一人だけな・・・」
ぽつりと話した一言に、その時さずがに子供心だった私にも、残酷な事を聞いてしまったのだと気がついたものです。
今、甲子園で白球を追いかけている高校球児も、戦地に行った少年兵士も、同じ少年だったはず。
それは、ほんのボタンの掛け違いほどの時代の違いだったのですね。
戦争は人間を狂わせてしまいますよね。
今、私たちはのほほんと暮らしてますが、戦争を体験されている方達はそれぞれ心に深い傷を負っているのでしょうね。
私の父は中学を出たあと、すぐに舞鶴の海軍兵学校へ行かされたそうです。
幸い出陣前に終戦を迎えたので、今、私が存在しております。
私も、父親が生きて戻った事で存在しているので、感謝しなくちゃいけないですね。
せめて、自分の子供や、その子供達には、絶対戦地にへは行かせたくないと思います。
初めて書き込み失礼します。実はもう数年前から、愛読させていただいております。
お父様の乗られた「呑龍」という飛行機に反応してしまいました。それはきっと、群馬県太田市にあった中島飛行機で作られたものではないかと思います。中島飛行機は現在の富士重工(スバル)の前身です。
太田市には「義重山大光院新田寺」という大きなお寺がありまして、市民からは「呑龍様」と呼ばれて親しまれています。
私の実家が太田でして、戦時中は全国から飛行機を作るために若い男性が太田に集められていたそうです。そして各家庭に強制的に数人ずつ住まわせていたそうです。
私の実家にも、千葉県の勝浦市などからやってきた20代の若い人たちが数人いたそうで、当時12~13歳だった私の父は、その人たちから工場で飛行機を作る様子などをよく話して聞かせてもらい、将来は「呑龍」のような立派な飛行機を設計する人になりたいと胸を躍らせていたそうです。
「どの人もみんな器用でなぁ、ちょっとの時間で、そこらの木片で俺の弟妹におもちゃつくってくれてなぁ。さすが日本一の飛行機を作る人たちだぁ、って思ってたけど、まだ若い衆だったから、郷里に帰りてぇ、母ちゃんの作るメシが食いてぇって(こっそり)言っててなぁ。不憫だったなぁ」と父が話していました。
ぽぷらさんのお父様の、「呑龍」のお話、どんなお話だったのでしょう。
「呑龍」を作った人、乗ったお父様、そして私の父も、すでにみんな空の上の人ですが…。
戦争がつないだ悲しい縁ではありますが、黙って立ち去ることができず、長文になってしまい 大変失礼いたしました。
ひろみか さんへ
ひろみか さん、コメント有り難うございます。
とても興味深いお話を聞かせていただきました。
戦争の事をあまり話したがらなかった父が、唯一私に聞かせてくれた話が、この「呑龍」という飛行機に乗っていたという事でした。
群馬県太田市の中島飛行機で作られた事や、それが現在の、富士重工であることなど、ひろみか さんのコメントに引き込まれました。
なにより、『日本一の飛行機』に乗っていた父を誇りに思う事ができました。有り難うございました。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。
お返事ありがとうございました。
つい意気込んで書き込んでしまったものの、新参者がいきなりこんな話題を長々としてしまって、「どん引き」されてしまったかなぁ~と反省していました。
暖かいお返事いただけて、ほっとしています。
中島飛行機は、呑龍様のお寺のすぐ前の土地に工場がありました。呑龍という名前は、寺を建立した際に、茨城県岩槻市から「呑龍上人」というお坊さんを呼び寄せて開山したからです。当時この地域は貧困のために子捨てが横行していたそうですが、呑龍上人はそうした子をみなお寺に連れてきて、寺の子として住まわせ、7歳になるまで育てたそうで、以来大光院は「子育て呑龍」と呼ばれるようになりました。
「呑龍」って、飛行機に名づけるにしてはちょっと重たい感じですが、きっと中島飛行機の人たちは、これぞという飛行機だからこそこの名前をつけたんだと思います。工場のある街を代表すると言ってもいい名前なわけですから…。
父はほんとうは飛行機乗りになりたかったそうです。生まれつき身体が弱かったので、きっと「甲種合格」は無理だと思い、ならば設計をと思っていたとか。昭和5年生まれなので、終戦時15歳。中島飛行機の工場に奉仕活動?に行く道の途中で、終戦を知ったそうです。あと数年戦争が延びていたら、私も生まれることがなかったかもしれません。
実は私、小さいころに、父に連れられて千葉県勝浦市まで行き 例の「おもちゃ」を作ってくれたという男性の方にお会いしたことがあります。父より10歳は年上だったかと思いますが、もとは宮大工のようなお仕事をされていたとか。そういう人を集めて飛行機を作らせていたんですね。
また長くなってしまいましたが、父の昔話を聞いていたおかげで、ぽぷらさんと直接お話する機会に恵まれました。
北海道が好きな私、こちらに偶然お邪魔して以来 ぽぷらさんのほんわかした世界にずっと癒されています。
こちらこそ、これからもずっと拝読させてください。有難うございました。
ひろみかさんへ
”ほっとしています”なんてとんでもないです。
こちらこそ、父の乗っていた飛行機のお話が聞けて、とても嬉しかったです。
宮大工のような仕事の方が作った飛行機と聞いて、それは凄い飛行機だったのだろうと感じました。
今思うと、もっと親身になって昔の話を聞いておけばよかったと降下ししています。
北海道が好きでいて下さって、何よりそれが嬉しいです。
有り難うございます。