北海道・札幌発・だべさ通信5

小樽 祝津の海から大砲が撃たれた玄武丸事件

小樽 祝津の海
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昔、蝦夷地と呼ばれてた北海道は、今年北海道という名前になって150年だそうです。1869(明治2年)
それまでも和人は住んでいたけれど、一斉に開拓が始まったのは北海道になってから。
先日、小樽水族館から見える海を見て思い出した事があるので書いておこうと思います。

 

 

小樽 祝津の海で起きた玄武丸事件


それはこの海で起きた『玄武丸事件』とか『黒田長官大砲事件』とか呼ばれているものです。

北海道になってから間もない1876年(明治9年)のこと、この海を時の北海道長官 黒田清隆(くろだ きよたか)を乗せた開拓使船玄武丸が通っていました。

 

小樽 祝津の海


ちょうどこのあたりにさしかかったとき、玄武丸から大砲が発射されました。

本当は、写真の左側の方にある赤岩めがけて打ったのですが、狙いが外れて、今の水族館のすぐとなり(右側付近)に落ちたのです。
運悪く、大砲は民家を直撃。飛び散った破片が20歳の娘の両足の大けがを負わせてしまいました。
応急処置はされましたが出血がひどく、間もなく彼女は亡くなってしまいました。
もうすぐ結婚するはずだったのに。

小樽 祝津の海

 

 

 

小樽 祝津の海

 

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黒田清隆が大砲を打った理由

 

なしてこんなところで大砲なんか打っちゃったんでしょうか。

理由と考えられるその1)
江戸時代の北海道は、南を除いてはまだまだ未開の地。ニシン漁は北の方でも行なわれていましたが、ちょうど積丹半島から北の海は女人禁制でした。ニシン漁に雇われた やん衆と呼ばれる人達が、もし家族をつれて住むようになると、北海道まで行政が行き届いていないもので、国にとっては ややこしくなるってことが理由だったらしいです。
そこで、女人禁制の海に終止符を打つためドカンと打った。遊郭はあったんだけどね。

 

 

その2)黒田清隆は酒癖がひどい人で、このときも一緒に乗っていたクラーク博士と口論になり、むしゃくしゃしてドカーンと打った。

 

その3)とにかく大砲の試し打ちがしたかった

 

 

理由は諸説あるようです。
この事件は、結局 船の船長の責任にされちゃったんですと。なんだかな~~~

 

 

ちょうどここから見えるあたりに、玄武丸がいたんでしょうね。
そんな事件があったなんて、今はみじんも感じられない美しい海です。

 


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